【世界線#012】もしも坂本龍馬が暗殺されなかったら―「船中八策」が導いた民主国家と官僚制を超えた未来社会―

夜の京都・近江屋で、ろうそくの灯に照らされながら遠くを見つめる坂本龍馬の後ろ姿を描いた写実的な歴史画風のイラスト
暗殺の夜を生き延びた坂本龍馬が、近江屋の帳場越しに未来の日本を静かに見据える――その瞳に映るのは、まだ誰も知らぬ「もう一つの明治」だった。

幕末の風雲児、坂本龍馬。もし彼があの夜、京都近江屋で凶刃に倒れず、その卓越した構想力と行動力をもって新しい日本の建設に参画していたとしたら、我々の知る近代日本はどのような姿をしていたのだろうか。本稿は、この歴史の「もしも」を探求し、坂本龍馬暗殺回避という一点の分岐がもたらす、もう一つの日本の可能性、特に彼が理想としたであろう民主主義の早期実現と官僚制への健全な対抗という視点から、重厚かつリアルに考察する。

目次

奔流の中の星:幕末における坂本龍馬の役割と歴史的意義

坂本龍馬は、土佐藩の郷士の家に生まれながらも、その視野は藩の枠を遥かに超え、日本の将来を見据えていた稀有な人物である。脱藩後、勝海舟に師事し開国論と海軍の重要性を学び、神戸海軍操練所の設立に尽力。その後、長崎で日本初の株式会社ともいわれる亀山社中(後の海援隊)を組織し、海運業を通じて討幕派諸藩を経済的に支援した。彼の最大の功績の一つは、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の間に「薩長同盟」を斡旋し、討幕運動の決定的力学を生み出したことである。さらに、新国家構想「船中八策」を提示し、大政奉還の実現にも大きな影響を与えた。この「船中八策」には、議会開設、憲法制定、官制改革、条約改正、海軍拡張、通貨制度統一、法典整備といった、近代国家の骨格となるべき先進的な構想が盛り込まれており、龍馬の先見性を示している。しかし、1867年11月15日、大政奉還からわずか1ヶ月後、坂本龍馬は京都の近江屋で盟友・中岡慎太郎と共に刺客に襲われ、33歳の若さでその生涯を閉じた。この坂本龍馬暗殺という事件は、明治新政府の初期構想、特に民主主義的要素の導入や権力分立のあり方、人材構成に測り知れない影響を与え、その後の日本の近代化の方向性を左右する大きな転換点であったと言える。

近江屋の夜、運命の分岐:龍馬、奇跡の生還と「船中八策」の胎動

歴史が大きく異なる軌道を描き始めるのは、慶応3年(1867年)11月15日の夜、京都河原町の醤油商・近江屋である。史実では、坂本龍馬と中岡慎太郎はこの場所で刺客の襲撃を受け命を落とすが、この仮想世界線においては、龍馬が事前に旧幕府勢力や過激派の動きを警戒し、海援隊の同志たちによる厳重な警護体制を敷いていた、あるいは機転を利かせて襲撃者の包囲を突破したと仮定する。襲撃は行われたものの、龍馬は負傷しつつも一命を取り留め、中岡慎太郎も同様に生存する。この「坂本龍馬暗殺回避」という事実は、直後の戊辰戦争の様相、そして何よりも成立間もない明治新政府の権力構造と政策決定プロセスに、即座かつ決定的な影響を及ぼす。龍馬の生存は、討幕派内部の過激な武力路線や、薩長を中心とした藩閥による権力集中に歯止めをかけ、彼の理想とした「船中八策」に基づく、より穏健かつ包摂的で、国民に開かれた国家建設への道を拓く可能性を秘めていた。彼の持つ独自の政治思想、特に議会制民主主義への強い志向と、薩長土肥の枠を超えた人脈は、新時代の日本を大きく異なる方向へ導く原動力となり得たのである。龍馬は、新政府において特定の藩閥に与せず、官僚機構の硬直化や権力の濫用に対する強力なカウンターパワーとして機能したであろう。

新時代の設計図:「船中八策」の具現化と官僚制への挑戦

坂本龍馬の生存は、明治新政府の初期における権力闘争と政策形成に、史実とは全く異なるダイナミズムをもたらした。まず、彼の卓越した交渉力と「船中八策」に示された明確な国家ビジョンは、薩長土肥を中心としながらも、旧幕府勢力やその他の諸藩との融和をより重視し、広範な合意形成に基づく「万機公論に決すべし」の精神を新政府内に浸透させた。龍馬は、何よりもまず議会開設と憲法制定を最優先課題として強力に推進し、身分によらず国民が政治に参加する道を開くことを目指したであろう。これにより、明治政府の初期における廃藩置県や地租改正といった中央集権化政策は、一方的な上意下達ではなく、地方代表者との十分な議論と調整を経て、より民意を反映した形で段階的かつ柔軟に進められた可能性がある。

特に龍馬は、官僚機構の肥大化と専横を強く警戒したであろう。彼は、勝海舟から学んだ合理主義と、海援隊運営で培った民間活力重視の精神に基づき、政府の役割を国防、外交、基幹インフラ整備などに限定し、経済活動や地方行政は可能な限り民間の自主性や地方自治に委ねる「小さな政府」の理念を提唱したかもしれない。これにより、後の時代に見られるような官僚主導の産業政策や画一的な地方統治ではなく、多様な民間企業が自由な競争を通じて発展し、地方がそれぞれの特色を活かして自律的に成長する道が開かれた。

士族の解体と再編についても、龍馬は海援隊のような新しい経済活動への移行を積極的に支援し、起業家精神を奨励することで、西南戦争のような大規模な内乱の発生を抑制、あるいはその規模を縮小させたであろう。教育に関しても、身分にとらわれない実学重視の教育制度を推進し、単に知識を詰め込むのではなく、批判的精神や創造性を育むことを重視した。龍馬の存在は、新政府内にあって過度な藩閥主義や官僚主義を牽制し、国民の権利と自由を保障する、真の立憲君主制、あるいは共和制に近い形の民主国家への早期移行を促す重要な役割を果たしたに違いない。彼の理想とした「議事院(議会)」は、単なる諮問機関ではなく、実質的な立法権と行政監視権を持つ強力な機関として構想され、その実現に向けて精力的に活動したであろう。

明治期の建築様式を持つ巨大な議事堂「議事院」が建設中の様子を描いた写実的な風景画。足場が組まれ、工事中の様子が丁寧に描かれている
坂本龍馬の理想に基づき設計された「議事院」は、民意によって政治が動く時代の象徴として建設が進められていた。そこに宿るのは、万機公論に決すべしという信念である。

「東洋の理想国」か、独自の道か:龍馬日本、20世紀国際秩序への挑戦と民主主義の深化

坂本龍馬の構想が色濃く反映され、「船中八策」の精神が国家運営の根幹に据えられた日本は、20世紀を迎える頃には、史実とは異なる国際的地位と国内状況を形成していたと考えられる。龍馬の重視した「万国公法(国際法)」の遵守と対等な外交関係の構築は、日本の外交政策をより協調的かつ平和的なものへと導いた。アジア諸国との関係においても、単なる欧米列強の模倣による帝国主義的膨張ではなく、互恵的な経済連携や文化交流を基軸とする「共存共栄」の道を模索した可能性が高い。これは、龍馬が持っていた商人としてのプラグマティズムと、諸外国の事情に通じた国際感覚の賜物であろう。

これにより、日清戦争や日露戦争といった大規模な対外戦争は、その勃発が回避されるか、あるいは限定的な規模に留まり、より外交交渉による解決が図られたかもしれない。特に、朝鮮半島や中国大陸との関係においては、龍馬の持つ現実的な国際感覚と対等な視点が、より友好的で建設的な関係構築を促し、後の軍国主義的台頭とその破局を回避する上で決定的な役割を果たしたと考えられる。国内においては、議会制民主主義がより早期に根付き、国民の政治参加も活発化したであろう。龍馬の持つ民衆感覚と反権威主義的な姿勢は、政治を国民にとってより身近なものとし、藩閥や軍部、そして過度に権力を持つ官僚機構の専横を許さない強い市民社会の形成を後押しした。

経済的には、龍馬が海援隊で実践した自由主義的な市場経済が発展し、特定財閥による寡占ではなく、多様な中小企業や個人事業主が自由な発想で活躍する、よりダイナミックで公正な経済構造が実現されたかもしれない。科学技術の発展も、軍事優先ではなく、国民生活の向上に直結する民生技術や基礎研究、そして龍馬が得意とした海事技術や通信技術、さらには新たなエネルギー技術に重点が置かれ、世界をリードする成果を生み出した可能性がある。宗教や文化の面でも、西洋文明の積極的な導入と日本の伝統文化の保存・発展が、龍馬の柔軟な思考によって巧みにバランスされ、より多様で寛容な文化が花開いた。結果として、20世紀の日本は、軍事大国ではなく、成熟した民主主義と自由な経済、そして豊かな文化を誇る「東洋の理想国」として、国際社会において独自の尊敬を集める存在となっていたであろう。官僚制は国民に奉仕する効率的な行政組織として機能し、その暴走を抑えるための議会や司法によるチェック機能も十分に発達していたと想像される。

現代情景描写:国際自由都市「長崎菱港」の活気と成熟した民主社会

西暦2024年、かつての長崎は「長崎菱港(ながさきりょうこう)」として、アジア太平洋地域屈指の国際自由交易都市へと変貌を遂げている。坂本龍馬の海援隊の旗印であった「菱」を冠したこの都市は、彼の構想した開かれ、自由で、民主的な日本の象徴だ。空には次世代型VTOL(垂直離着陸機)が静かに飛び交い、港には世界中から大型コンテナ船や未来的なデザインの客船が絶えず入港している。歴史的な洋館と最新鋭の超高層ビルが調和したスカイラインは、伝統と革新が共存するこの都市の精神性を映し出す。

街の公用語は日本語と英語に加え、アジア諸国の言語が飛び交い、多様な人種と文化がモザイクのように入り混じる。教育機関では、龍馬が重視した実学と国際感覚、そして批判的思考力を養うカリキュラムが組まれ、世界中から留学生が集う。政治的には、地方分権が高度に進んでおり、「長崎菱港」は独自の条例や経済政策を柔軟に実施できる特別行政区として、ダイナミックな発展を続けている。市議会は常に市民に公開され、オンラインでの政策提言や住民投票も日常的に行われるなど、龍馬が目指した「万機公論に決すべし」の精神がテクノロジーと融合し、高度な参加型民主主義を実現している。

エネルギーは、沖合に浮かぶ大規模な洋上風力発電と潮流発電プラント群によってほぼ100%再生可能エネルギーで賄われ、環境技術のショーケース都市としても名高い。市民の生活は、高度な情報通信ネットワークに支えられ、多様な働き方とライフスタイルが尊重される。週末には、龍馬の銅像が立つ海を見下ろす公園で、多国籍の家族連れや若者たちが自由に議論を交わし、新たなビジネスのアイデアや社会変革のプランを語り合う姿が見られる。そこには、閉塞感とは無縁の、自由闊達な進取の気風と、官僚的な権威に阿らない市民の自立した精神が満ち溢れている。この日本は、坂本龍馬の理想とした、世界に開かれ、国民が主役となり、官僚機構が国民に奉仕する国家の姿を体現しているかのようだ。

未来的な建築と海上交通が整備された都市「長崎菱港」の風景。空中にホログラムが浮かび、市民が議会に参加する様子が描かれている
かつての長崎は、坂本龍馬の理想を受け継ぎ、参加型民主主義と国際交易が融合する未来都市「長崎菱港」へと進化を遂げていた。

龍馬の遺志、未来への灯火:「船中八策」の精神と民主主義への問い

坂本龍馬が暗殺されず、その希代の構想力と行動力をもって明治日本の建設に参画していたならば、日本の近代史は間違いなく異なる様相を呈していただろう。本稿で描いたのは、その無数の可能性の一つであるが、彼の「船中八策」に込められた民主主義への希求、自由経済への信頼、そして官僚制の硬直化への警戒心が、その後の日本の進路をより平和的で、より国民本位で、そしてより世界に開かれたものにしたであろうという期待は、決して的外れではないはずだ。

龍馬の生存という仮定は、単に歴史のIFを楽しむだけでなく、現代の我々に対しても重要な問いを投げかける。それは、一人の人間の持つ先見性、決断力、そして他者を巻き込む力が、いかに大きな歴史的変革を生み出しうるかということである。そして、彼が目指したであろう「万機公論に決すべし」という民主主義の根本原理、そして権力の集中や官僚の専横を許さないという健全な警戒心は、21世紀の複雑化した国際情勢や国内の諸課題を解決する上でも、未だ色褪せない普遍的な価値を持っていると言えるのではないだろうか。

我々は、坂本龍馬のような傑出したリーダーを待望するだけではなく、彼が持っていたであろう精神性――既成概念にとらわれない柔軟な思考、未来への大胆なビジョン、権威に屈しない独立心、そして何よりも行動する勇気――を、現代を生きる我々一人ひとりが持ち得るのかを自問すべきなのかもしれない。歴史の「もしも」を考察することは、過去を違った角度から照らし出し、それによって現代そして未来をより良く生きるための知恵と勇気を与えてくれる、知的な営為なのである。坂本龍馬が生きていたら、という問いは、我々自身の民主主義への覚悟と、より良い社会を築くための不断の努力への問いでもあるのだ。

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